2009年3月2日月曜日

幸せについて

光岡英稔

今日この頃の想い。


人はどうすれば幸福になれるのか、そもそも幸福とは何か、私は幸せに基準を引けるだけの答え持っていません。

ただ、これらの問いを発してみた時、不幸の源とは何かが少し見えてきました・・・。

それは私自身が幸福を欲求したり、私達がもっと楽をしたいと望み欲するからではないでしょうか?私達が他人や社会等の外の世界に対して“もう少し”こうだったら私の思い通りに成るよう願ったり。“もっと”こうであれば私にとって理想的な状態なのにと望んだり。“他人がこうしてくれたらもっと楽なのに”“社会が私の為に私の思い通りになってくれたら”等と思えば思うほど私達は苦しみ不幸になって行きます・・・。

そして更には“私はこれほど他者や社会に貢献しているのに何故報われないのか!?”とか“私はもっと他者から感謝されるハズだ!!”と苦しみを自らの中で増やして行くのです。

挙げ句の果てには、自分が不幸な分だけ他者や社会を不幸にすれば自分が報われるのでは!?とまで狂想を始めてしまう人もいます。

私はつくづく感じます、我々は愚かな側面を持つ可哀想な動物だと・・・。

しかし、それは何故なんでしょう?それは恐らく私達自身の欲求や欲望などの思いが、私達自身の目を曇らせて、今ここに有る目の前の幸福を見えにくくしているからではないでしょうか?

以前韓老師が私に言ったことがあります、“あたりまえの事などは無い”と・・・、最近その言葉の意味が少し分かってきました。

身近な事から考えてもそうですが、食べ物が毎日有る事や飲める水が有る事、戦争が無い事や、革命によって社会が混乱していないこと、病気で無いこと、また周りの人達が病気でないことや、私自身や家族・周りの人達が不虞の事故にあってないこと、住む場所が有る事などなど・・・。

これら一見あたりまえに思える事はよく考えてみるととっても不思議なことの様に感じられます。

不幸は誰の身の上にもでも起こり得る可能性が有る公平なものです、しかしこれ等の不幸が我々の周辺で“あたりまえ”のように起きていません。いや、私は寧ろ“奇跡的”に起きてない様に感じます・・・。

日本だけでも1日に=交通事故2092件、救急車出動14494件、犯罪者検挙1002件、私達は日々これ等の事に遭遇しません。また世界では生まれて5歳になる前の子供が食べ物がなく生活環境が衛生的に悪いせいで3割死にます、世界中の6人に1人は飲み水が有りません、アフリカのスワジランドと云う国では戦争や貧困で人の平均寿命は32歳です・・・。

だからと言ってその人達が不幸かどうかは分かりません、もしかしたら1週間に一回食べられる食料や飲める水によって我々が想像もつかない幸せを感じているかもしれません。それか、ただ今日も自分が生きていられることや自分の子供や親が大丈夫であることに対してこの上無い幸福と喜びを感じているかもしれません。

それはどれだけお金を作っても、どれだけ社会的地位が上がっても幸せを感じられない人達の方が不幸かもしれません?どれだけ物を買っても満足できず心が充たされ無い人達より幸福かもしれません。

確かに様々な社会問題、戦争、貧困は断片化してしまった宗教や思想、または共産主義、資本主義などの社会経済思想や民主主義、社会主義などの国家社会思想が原因で起きている現実もあります・・・あらゆる思想や主義主張が在り、これ等の問題を産んでいる事実もあります。

しかし本当に不幸の原因は国や政府、社会でしょうか?

本当にある宗派でなかったり、ある思想を持つから人は不幸に成るのでしょうか?

本来思想や主義とは個人的な事であり、集団が持つべきものではありません。そして仮に個人だけで在ったとしても、それを出してしまっては問題の種に成りはしても解決の基にはなりません。

主義や理想の唯一の置場は自分の内面でそれをそっと静かに閉まって置くことができる心の中のみではないでしょうか・・・、一生外に出さず誰にも見られる事が無いかもしれない自らの中のサンクチュアリに・・・。

この主義・理想は個人の中の欲求や欲望とよく似ています、実は私達の強い思い込みに対する欲求が主義・理想と成って行くのです。

それ等が有ってはダメな訳ではありません。ただ、いま目の前にある現実から逃避する為の思い、欲求、欲望が強すぎるとその思いや欲自体が自分自身を苦しめます。

また、その求める気持ちや望む感情が増してくると、どんどんと心の内側に在る筈のものが表面へ浮上して行き、頭の中の理想に対する感情や気持ちの方が幸せの中心に成ってしまい、目の前の幸せが見えなくなってしまいます。

しかし、先ほど言った様に理想を持つこと自体が悪いのでは無く、その理(ことわり)を口にださず大切に心内で想っておいてこそ本当の意味があるのかもしれません・・・?

古典で言われている言葉が有ります〜知る者は言わず、言ふ者は知らず。其の兌を塞ぎ、其の門を閉ず、其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵を同じくす。是れを玄同と謂う。故に得て親しむ可からず、得て疏んず可からず。得て利す可からず、得て害す可からず。得て貴ぶ可からず、得て賤しむ可からず。故に天下の貴と為るや。〜と、そして天下の貴と成る者、そこで自ら己を做し、他と比較せず幸せなり・・・。

しかし何千年経っても人はなかなか幸福にはなれません、それは人が何千年も幸福の答えを常に外の世界(社会体制・宗教・国家思想)や他者に求め、自分自身の心の中に在る答えを観ようとしなかったからだと思います。

私にも本当の幸せが何かまだ分かりません・・・。

もしかしたら答え無き答えを探しているだけなのかもしれません。

もしかしたら答えが身近すぎて見えないだけなのかもしれません。

もしかしたら只、今この世で生きる機会を天から授かっている事なのかもしれません。

もしかしたら一番あたりまえに感じてしまう日常が、私達にとっての最高の幸福なのかもしれません。

日々私達が生きて居られる事が私達にとっての“あたりまえ”の様な幸福と言う名の“奇跡”ではないでしょうか。

しかし、皮肉な事にいま語らせてもらった全ては本来なら私自身の心中に閉まって置くべき事であるにもかかわらず、この時代の流れ中で止まって居られないと感じ、恥ずかしながらも語らせて頂きました。私も長らく皆と会っていませんが皆がのびやかに幸福な日々を過ごされている事を心から願っています。


 日本韓氏意拳学会

会長光岡英稔より