形、型、かたち・・・
人は盲目的にも根拠なきことを信じれるナイーブな生き物かと思う・・・
“とりあえず形から”
“型をしっかりと覚えてから”
“かたち通り出来たかどうか”
等々〜
危険な言葉である—
無作為につい使ってしまえるこれ等の言葉には我々を盲目にしてしまう危険性が満ちている・・・
確かに分かりやすくて手っ取り早いだろう、
たしかに安易になる事だけは許されるであろう、
確かにその便利さに身を委ねてしまい、自らに対しての責任から逃避することは出来るだろう、
自分自身にとっても分かりやすく、
互いにも共有しやすく、
確認しやすいだろうから、
自らの答が無い故に、本質や根本的な要因に目を向けなくても良い言い訳になるだろうから・・・
とりあえず“かたち”からと言っておくと—
これ等の言葉を語らせてもらっている時に思い出す・・・
王向齋先師の言葉を・・・
不求形骸似、
只求神意足、
形骸を似るを求めず、
求めるは只神意たるなり・・・
実の所、私は意拳が何かまだよく理解できてないのだが、
そうで無いものは多少なりとは見える様になってきた・・・
そうで無いもの—
即ち問題となる部分が浮上して来て、我々の前に姿形を見せてくる事が判ってきた、
それが人々の中に在る、
表に浮上してくる断片的で、具体的で、分かりやすい所だと言うことだけは解ってきた、
それ等の問題が浮上してきて姿形を現した時に、
何をしたらいけないのかだけは見えてきた・・・
問題が在る時—
断片を以てして断片的に解決しようとする事、
具体的な問題をその部分だけで判断し解決に至ろうとする事、
分かりやすい所で分かりやすく、
浅はかに判断し、
安易な答えを出してしまうこと、
これ等の行為は更なる問題を潜在させてしまう“その場しのぎのバンソコウ”でしかなく、
その“バンソコウ”の下に問題が潜在していることは分かってきた・・・
バンソコウでは癒せない傷を持ち合わせながらも、
ペタペタと表面にバンソコウを貼り、それで大丈夫だと思える愚かで可哀想な私達・・・
そのバンソコウの下は、傷つき、膿んできて、更に傷んで、腐敗してきているのに・・・
人は愚かにも“形”という名のバンソコウを更に貼って行くことしかできず、
いつしか表面は覆い隠しても腐敗し過ぎて自らの痛みでさえも感じなくなってしまった・・・
いや、本当は痛みを分かっている故に見ないようにし、自らを誤魔化しているだけなのかも知れない—
自らを偽るために、
自分の過去から逃げる為に、
何か、誰かを自らの偽りの言い訳にする為に、
必ず傷が癒されるかどうかは分からない、
こんな事は私の口からワザワザ聞かずとも、自らの本心や本性が知っている事、
答えが無い事に抵抗を感じるのは、私が提示する言葉に対してではなく自らの本心や本性に対してでしかない、
ただ一つ言えることはバンソコウを剥がさないと永遠と傷が癒されないこと—
メッキでしかない形(アイデンティティー)の部分を棄てて行かないと本質に向かって行けない、
バンソコウを貼っても良いのだが、あくまでもそれは応急処置でしかなく、目的は傷を癒す事であり、問題の中枢へ至ること・・・
我々は知って措かないといけない、
問題の中枢に至るには真実への問い掛けが必要であることを—
その真実は神意を通じ自らを顧みる事のみにしかないことを—
そして、神意に至るには過去の囚われである形骸を棄てて行くしかなく、
自らの中に、自らが造り出した形(イメージ)に対する囚われを棄てて行くしかないことを—
知って措く必要が有る・・・
形骸(過去)を自分を偽る言い訳にしている内はできないだろう、
自らの中で形(ステータス)を離せずにいる内は恐怖を潜在させていて・・・
自らの型(アイデンティティー)が何かに囚われ、縋り、肖ることのみで確立されている内はそれ等の依存対象を離すことが恐ろしくて出来ないだろう・・・
自らの中に在る“イメージ”“アイデンティティー”“ステータス”と言う名の“型”が自分と同一化してしまい、
それが恰かも自分だと勘違いしている内は常にそれ等を失うことに恐怖しなければいけないだろう・・・
私は最初に言った・・・
危険に満ちていると・・・
これ等の“かたち”が、
形(自我)への依存が、
型(偽り)ばかりを追い求めてしまう世俗になることが—
かたち(偽善)だけでしかない行為が・・・
一見無害に見えるこれ等の“形”が自らを拘束し苦しめる事になろうとも知らず・・・
ただ、我々が自らに対し安易になってしまった結果なのだろう・・・
我々は自らが解決できる問題を一つ一つ振り返りながら過去の行いを改めていく事しかできない、
他者(イメージ)に対する行いは—
自ら(心身)に対する、
自ら(イメージ)による、
自ら(精神)への行いである、
他者への悪意が自らを蝕み、苦しめ、滅ぼして行く事にもなる・・・
我々は自らが直感している真実を受け止め、認め、改めて行くしかない、
形(建前)を言い訳とせず、
一つ一つ過去の行いを償って行くしかない、
恥ずかしがらずに、恐れずに、試しに形(囚われ)を棄ててみればいい、
そうすれば我々も一歩近づけるかも知れない—
先師の遺してくれたこの言葉に、
但不求形骸似、但求神意足に・・・
拳学を志した者として内に秘めておきたいと思う、
先人達の遺した其の意(こころ)を偽りなく受け継ぎ、偽りなく後世へ伝えて行くことを—
それにより自らを人間として深めて行ける事を心掛けて行きたいと思う—
そうして居るとある日、私であることの形(イメージ)ではなく、神意を通じて体認に至った時の私に出逢えるかもしれない・・・
光岡英稔