社会、文化、文明と人の心
ありとあらゆる民族習慣、社会性、宗教などにより社会、文化と文明を我々人間は築いてきた。
人種、性別などを越えて誰しもが持っているこれ等は、
あまりにも多くにとって当たり前になりすぎ洞察される事がなくなってしまった・・・
これ等を一つ一つ洞察して行くことは、まるで重力が在る所に立ち、空気を吸ったり吐いたりする事を意識せず洞察する位あたりまえだから、確かに困難な所があるかも知れない。
私達にとってあまりにも日常的な行為で、あたりまえすぎて見えない故に、これ等の日常を失った時に始めて気付かされた経験を誰しもが持っているのではないだろうか。
親が居ること、子供が居ること、自分が健康であること、周り皆が健康であること、食べ物がたべられること、住む場所が有ること、身の周りの社会生活が安定していること・・・
我々が贅沢にもこれ等の事柄に対し貪欲になり、愚痴や文句を溢せるほど当たりまえ過ぎて気付けない数々のこと・・・
そしてこれ等の土俵となっている当たり前の数々が、社会、文明、文化の影響をあたりまえの様に受けている。
皆は感じられるだろうか、日本語を喋ることが習慣的な事柄だと。
日本語で考えたり、日本語を書いたり、日本語で覚えたりする事が実は当たり前ではなく習慣だと言うことを・・・
つい、常識と考えてしまわないだろうか、当たり前だと感じてしまわないだろうか。
しかし現実はどうだろう、
果して各民族によりどの時代でも使われていただろうか我々が無作為に日常で使っている日本語が。
それか限定された非常に狭い枠の中のみで使われていないだろうか。
でも、つい感じてしまわないだろうか、
我々の身の周りに無作為に存在する文化、文明、社会的な要素が“あたりまえ”の様に・・・
もし、常識や当たり前を定義するなら此れ等はどの時代でもどの民族にも共有されている一つの事象とされなければ“常に”識いられている事柄ではなくなり、無論あたりまえでない事となります。
我々の感覚や感情は、常に我々に偽りを呈示することに因って本当の事を伝えてくれようとしているのではないだろうか—
我々が感覚や感情を通じて認識に至った事象が実はそうでないことを示そうしているのではないだろうか—
自然が我々に教えてくれようとしているのではないのだろうか・・・
—“本当に本当のこと”を。
社会、文化、文明、とは其処を原点として出来上がって行き、今に至る様に感じられる。
社会の語源“社”は示+土らしく“土”産土神(うぶすながみ)という身近に於ける土地の神・自然の存在に“示”、我々の感謝の意を呈示し、
自然から受けとり捧げる行為でもあったようだ、
社会“社が会う”事とは—
古くは土地の神を中心とした二十五戸の集まりを1つの単位とし、
複数の人間が自然への感謝の意を通じて出会う場を社会と呼んでいた、
もしくは天地自然の行いにより人が出会い、縁が生じる場所のことかも知れない・・・
そこに文化が生じ、文明ができあがって行ったのではないのだろうか、
言葉、言語を源泉とし文字に至り、
その文字が時の中を化けてゆく過程を文化と名ずけ、
時の中を所々止まり明らかにされたことを文明と名ずけたのかも知れない。
人は愚かにも文化と云う変化の過程に身を置けばよいものを、
文明と呼ばれる断片的な錯覚でしかない制止の世界に身を置こうとする・・・、
一切全てが一時足りとも止まった事がなく、今も静止せず続いているのに・・・、
我々にとって分かり易く断定できる数々の事象を現実となずけ、
程々にしておけば良いものを、知ったことに対しての感情的衝動と欲望をどうすることもできず、
それらを文明と呼び、止めて、同じで有ることのみに感情や欲望を費やし
知恵の不安と至福の為に変化を拒み、それらを固めようとする—
そして、自らが自分のアイデンティティーを固めておく事によって、
恰かも周りの存在をコントロールできるかの様な錯覚に陷。
自分が誰かが見失われて行く—
文化と呼ばれるの変化が個人に属しつつも、
個が外の世界との接点を断つことが一時もなく、
自らの存在意義が常に揺れ動かされ行く故に、
外界の価値観に身を染めてゆき、
自らの文化を見失って行く我々—
アイデンティティーが失われて行く故の不安を感じつつも、
どうする事もできない恐怖を潜在させ、
怯えてる事を覆い隠し眠りに就かせてしまう・・・
我々は吟味しないといけない。
社会、文化、文明に対する問いを、
そこで完結された答えに至る必要はない、
ただ問い続けたい気持ちが自らの中にあればそれでいい、
研ぎ澄まされた刃が鞘に納められている様に、
その日までソッと心の中に閉まっておけばいい、
次なる問いが立てられるその日まで・・・
その日が訪れたときには、自らでさえも自分自身が問うことを止められないであろう—
源泉から取り留めもなく湧き出てくるその知りたい気持ちを、
そして何時まで問い続けられるかを試される事となるだろう、
答えを出してしまいたくなり、結論を欲するあまりに、
間に合わせの答えを付けたくなるだろう、
自らを偽り、答えを付けてしまうかも知れない—
その時こそ試されるであろう、
心の中にある刃を鞘から抜き、
その答を出してしまいたくなる欲望を断てるかどうかを、
問われるであろう、
どこまで問いを立て続けれるかを・・・
その心の衝動こそが私達の文化の源泉ではないのだろうか
文化とは一時も止まる事のない問いではないのだろうか
目まぐるしく変化する私と外の世界
その中で我々の問いに対して呈示されてくる自然からの答え・・・
それらの答えに耳を澄まして何処まで聞き入ることが出来るのだろうか
何処までジッと静かに答えを出さずに聞き入れるだろう
感じることは許されても、知ることは許されてない自らの答えをソッとしておけるだろうか
はたして君は文明という浅はかな答えを付けずにいられるのだろうか・・・
自然の目から見た文明という人間の答えは、
あまりにも愚かな私達がリアルに造り上げてしまった幻想の世界だと認めれるのだろうか
愚かで、可哀想で、多少の可愛らしさを残しながらも人はそれらを現実だと思い込み、
我々の日常からは想像も付かない世界の中で—
ただ我々が錯覚による枠を造り上げているだけだと云うことを、
その錯覚から目を覚ました時のみに分かるであろう、
リアルな夢の世界が錯覚であったことが。
その時、始めて文化、文明、社会が互いに公平な立場で各々の役割を果たせるのではないだろうか、
個々の利害損得などの利己的な理由からではなく、
本当の文化を大切にし、文明に囚われず、社会を自らを顧みる場とし、それ等の為に尽くすことが—
君達に果たしできるだろうか・・・
私にできるだろうか・・・
問いは終わりを迎える事なく続くであろう・・・
光岡英稔