「私、現実、事実、真実、」
私のことを“知っている”人々がいる・・・
私は“こう言った人だ”と、
私は“こんな事をした人だ”と、
私は“この様な事ができる人だ”と、
私は“こんな事を言う人だ”と、
私の事を“知っている”つもりの人々がいる・・・
それぞれ各々で人は自らの主観的見解で他者を作ろうとする・・・
他者を計ろうとする・・・
自らの物差しで他者を計る事で一時の優越感に浸れるからだろうか、
他者を計る事で自分自身と向き合わなくて良いからだろうか、
他者を計る事でその場しのぎの安心感を偽りでもいいから得る事ができるからだろうか、
自らの造り出した他者のイメージを計ろうとする・・・
自らが造り出した他者のイメージにしがみ着き、囚われ、執着し、反発し、抵抗し・・・
または、自らが造り出した過去の出来事と過去の自分との関係性に囚われ、
未来にあり得る私と他者、その間の出来事からなる関係性にしがみ着き、
それ等を自らのアイデンティティーと結び付け、確定し、更なる偏見への計りとして行く・・・
それらを現実と呼び、
それらを事実とし、
それらを真実と確信し、
自らが造った幻想の中で現実と言う夢を見ていることに気付かぬままいる・・・
現実とは自らがただ造り出し、狭く限定された枠の中の世界でしかない・・・
事実とは“只そうであった”以外に何ら意味がない事だと気付くのはいつなんだろうか・・・
真実とは常に真実の断片でしかなく、私が自らの全主観・全客観を用いても其れ等を真実と呼ぶことは出来ないことを認められるだろうか・・・
我々は現実を自らの経験・体験から断定し、それを許に事実を構成し、いつしかそれ等を真実と呼ぶ様になる・・・
故に誰しもが異なった現実、事実、真実を持ち合わせてしまう、
そして、それ等の現実、事実、真実を互いにぶつけ合うか、
それ等の表面的合意の共有で一時の安脳感(俗に言う安心感)を買うか・・・
その合意が自然に生じたものか、捏造されたものかは個々のみが知る、
捏造されたものであれば嘘が嘘を招くであろう、
自然に生じたとしても、その関係性に囚われれば合意を捏造したくなる欲望が自らの中から湧き出てくるだろう、
一時の安脳感の為に出ようとする欲望を我慢できるだろうか—
欲望の為に合意による捏造をしたくなってしまうことを耐えれるだろうか—
自らが造り出した“答え”を断定し、守り、否定される事に抵抗し、否定を予測し攻撃することを、戒め、認め、改められるだろうか・・・
自らの認識している現実、事実、真実が問われるべき所であり、認識の枠の外こそが真に現れている事実であることを認められるだろうか・・・
皆が造り出した私へのイメージは断片的な私の一部分ではあるが“それ等の私は私では無い”それは私自身がまだ自分を知って行く過程にしかいないから・・・
旅路の途中に居る者が目的地に到達していないだけの事であり、
目的地が何処に在るのか分からない旅人でしかない私・・・
私が私に対しての答えに至っていないのに、
なぜ他者が私よりも私の感じているものが分かり得ようか、
なぜ他者が私の体験を私よりも知り得ようか、
なぜ他者が私よりも私の経験からなる認識を私よりも深く知り得ようか・・・
人はなぜ意とも簡単に他者の是非や良し悪しを評価できるのだろうか、
私が出来ることは自らが、人に課せられている“自我の芽”“利己的な自分”を認め、戒め、改めて行く事のみなのかも知れない・・・
私が出来ることは—
実はそれ等が普通の事であり、只々あたりまえな事だと気付いて行くことなのかも知れない、
それ等が普通で、あたりまえである故に自然なことだと気付くことなのかも知れない、
もしかしたら、不自然は自らが持ち込んだ“自分への枠付け”“自身以外への欲求”により生じているだけだと気付いて行ける事なのかも知れない、
果して私はその都度気付くことができるだろうか・・・
自らの葛藤とは、常に自らの欲望が原点に在ることを・・・
自らの欲望が、“本能”である欲と小利口で巧みにズル賢い“知性”の組み合わせで在ることに・・・
人間の問題は人間しか解決できないように、私の問題は私しか解決できないことを・・・
どれだけ外の世界が私を助けてくれようとも、私の問題は、私が自らを顧みる事でしか解決できないことを・・・
どれだけ外の世界が私に問題を提示しようが、その問題は私が造ってしまった問題であり、自らの中にしか問題がないことを、
改められるのが自分自身であることを体認できるだろうか、
自らの見返りを求めていた意(こころ)の働きが、自らの心を一番傷つけていたことを気付けるだろうか・・・
自らの感情を満足させたい気持ちが、
感覚的満足を欲する気持ちが、
人を破壊に導き、自らを蝕んで行くことを、
感じることができるだろうか—
自らをごまかさずにいられるだろうか、
自らを偽らずにいられるだろうか、
自らを偽る為に他を攻めずにいられるだろうか、
自らの欲求や欲望を満たす為に他を責めずにいられるだろうか、
多くの善行が一瞬にして偽善となり、利己的な行為に変わってしまえることに注意を配れるだろうか、
自らにとって無害である事が前提での善行を他者の為に行った時、
私への利害損得を中心とした利己的な行為になってしまえる事を気付けるだろうか、
しかし、これ等は自らを犠牲にする事とも違う・・・
自らが得して他も得する事とも違い・・・
自らが得して他を害す事とも違う・・・
もちろん自らを害し他を害す事でもない・・・
ただ、我が身の可愛さや、自我を守りたいと言う見返りを自らが求めていたかどうかが問われる・・・
本人の中に自らが自我を守ろうとする気持ちがあるか、自己を犠牲にしている気持ちが在る以上は、その行為が本人を蝕んで行き、狂わせ、自らの破壊にまで至るであろう・・・
本人にとっての利他行とは自己犠牲的精神ではなく—
主体的であり、見返りを求めていない行為ゆえに、
自らが心の底から行いたく、行わずには居られない行為であり、
その心の働きは欲望とは異なる自身の中の衝動である、
そこには自身と行為との境目が無くなり、
自身と他の境目が無くなり、
我が行為と他者の境目も無くなる—
よって自己を犠牲にする事は出来ない・・・
もし自己犠牲の気持ちが僅かでも自らの中に在るなら、何れ自滅を招くか、周りに居る身近な人々を犠牲する事となるだろう・・・
自己犠牲とは自らがそう感じたり認識すべき事ではなく、
もし有るとしても、それは自分以外の人間にとって皆そう見え、そう感じ、そう認識することであり・・・
自らがそう感じ、そう認識し、そう見る事ではなく、
自らの経験や体験から溜め込んだ劣等感を他者に要求する事でもない、
自らに対しての問い掛けは—
溜め込み、貯金された劣等感から他者への優越感を求めてしまっていないか・・・
あたかも自分だけが犠牲を払って来たという悲壮感を自らの中に潜在させていないか・・・
その悲壮感や劣等感を許に弱者や人の弱みにつけ込もうとする攻撃的な優越感を潜在させていないだろうか・・・
それ等の感情の根源が自らが受け入れてしまった自らの存在以外からなる外の世界の価値観であり、受け入れてしまった私自身に一切の責任が有ることを認められるだろうか・・・
自らが僅かでも外界のその価値観に染まった時、
僅かでも自己犠牲から来る自己悲観がある時、
自らが自らを偽っていることを気付けるだろうか・・・
偽りから始めてしまった故に偽り続けないと不安な自分に気付けるだろうか・・・
不安や恐怖は自らで持ち込んでしまった答え故に在ることを気付けるだろうか・・・
利他行とは自らの主体的な行為を通じて、他の存在を借り、自らを顧みることではないだろうか・・・
利他行しかり—
做自己しかり—
格物至感しかり—
体認自得しかり・・・
私自身が他者を知ろうとする時、他を見る時、他を評価する時、自らを顧み、自身の行為を評価する時に心がけている事が以上となります・・・
さて、私や他者のことをよく御存じの皆様は他に対して評価される時、どの様に御自身は心がけて居られるのかな・・・
問いは終わりを迎える事なく続く・・・
光岡英稔