2009年8月26日水曜日

良き人とは・・・

「良き人とは・・・」





良き人とはどのような人なのだろうか・・・



様々な文化や社会での価値観では人は「良き人」で有るように努めることを教えられる・・・



親から子へ、師から弟子へ、先生から生徒へ、様々な社会的価値観の上で、または文化的価値観の上で「良い人」であることを教え育まれる。



他の価値観から為る「良き人」で在ることを受け入れた私が其処に居る—



そこに出来上がった—



何の疑問をも持たずにか、



疑問を持ちつつも自信なき故に周りの価値観に流され、それが「良い人」だと言うことを受け入れたからか・・・



周りの価値観から為る「良き人」で在る自分が安心感を与えてくれるからか・・・



互いに自信なき者達が互いを確認することで、その場しのぎの安心感・安脳感を得られるからなのか、



共有された表面的価値観から一時だけでも安脳感を得られるからか・・・



私が他に対して「良い人」で在ることをその施しから評価した時には、私は気付かぬ内に悪人を造り出している可能性がある・・・



他に対しての審判を行えるほど私は良し悪しの区別ができるのだろうか?



神や仏のみが知り得よう善悪の識別を私が行えるのだろうか—



「悪」は確かに人が作り出したものだが、



「善悪」は神か仏しかが知り得ないのでは・・・



自らの「悪」を改め、戒める事は人が自ら為せることだろうが、



なぜ人が人の善悪の審判を下せるのだろうか?



子に、親に、夫に、妻に、兄弟に、先生に、生徒に、知人に、他者に対して—



何が「善」で何が「悪」かをどうして私が決めつけられるのだろうか・・・



本当に何故なんだろう・・・






君が“ある人は良い人だ”と評価したとしよう、



君が認識したのはそのヒト本人でなく、彼等の断片的にしか確認できない君自身の価値観で造り上げた「その良き人」の印象(イメージ)か、その人に「良い人」であって欲しい願望(イメージ)でしかない。



その評価の対象を自らの中で造り上げ、留め、固定化させた理想像(イメージ)でしかない・・・



それにも関わらず他(イメージ)に対して利己的な自我を満足させてくれると、喜んだり、愛情を感じたり、嬉しく感じたり、好きになったり、これが愛だと勘違いする・・・



何の確信もなくその人が「良き人」かどうかなんて本当は分からないのに・・・




それを確定する要素は主観的価値観でしかなく、多くの場合は我々の物質的利害の利を満たしてくれるか、害を共有してくれるかでしかない—



または感情的利害の利を満たしてくれるか、害を共有してくれるかのどれかが私達にとっての「良き人」の基準を構築する・・・





しかし・・・





なに故その人が「良い人」だと私達は断言できるのだろうか—



その人の過去を全て知っているから?



その人の内面の全てが見えるから?



その人が将来どうなるか分かるから?



その人がわかりやすい利を私に与えてくれるから?



その人が私と同じ敵を持つから?



その人が私に何か物やお金をくれるから?



その人が私の生活を養ってくれるから?



その人が私の欲望や欲求を満たしてくれるから?



私達は本当にその人の本当の姿を知っていると言い切れるのだろうか・・・



その人はもしかしたら多くの人々を苦しめ、物やお金を私に与えてくれてるかも知れない—



その人はもしかしたら多くの人々を助けれるのに助けず彼等を犠牲にし、私一人の欲望や欲求を満たしてくれているのかも知れない—



その人はもしかしたら多く人々の殺戮によって私の生活を養ってくれてるかも知れません—



本当に私はその人の全てを知っているのでしょうか・・・



本当にその人は「良き人」なのだろうか・・・



私達は自分自身でさえも良く理解できてないのに・・・



自らの中で自らに対する善悪の審判が下されていないのに、



自らの中でまだ決着がついていないのに、


なぜ意とも簡単に他を評価できるのだろうか・・・



ならば私達はその人を悪人と決め付ければ大丈夫なのでしょうか?



会う人、会う人を疑っていれば大丈夫なのだろうか?



すべての事柄や人に対し疑心を懐き、疑いの目をもって見れば良いのだろうか?



本当はよく知らないその人やその事を・・・



私達はその人の一面や断片的な事実しか知らないのに無責任にも言えるだろうか、



その人が本当に「良い人」だとか「悪い人」だと・・・



その事が「正しい」とか「間違っている」などと・・・



何が「善」で何が「悪」かと・・・



結論付けられるのだろうか?



私達は恐らく一番身近な家族の事でさえも全て知らないのに、



その家族の内面にどの様な経験や体験が有ったのか、



それ等の経験や体験を通じてどの様な気持ちや思いになったのか、



何故その様な選択をしてきて、



今回はこの様な選択をするのか、



私達は身近な人達でさえもよく理解できない事が多く有るのに、



何故それほど知らないその人達の善悪が判るのだろう?




何故その人が良いか悪いかを浅はかにも決められるのでしょうか・・・



何故それ等が正しいか間違っているかを判断できるだろう、



私達は全知全能である神でもないのに・・・



確かに、もしかしたら、その人は本当に悪人かも知れない、



しかし、産まれながらの悪人などはいないと思いませんか—



赤ちゃんの時から悪人の人など・・・



悪意を持って産まれてきた人など、



恐ろしい悪人の形相をして産まれてくる赤ちゃんなどいないと思いませんか?




孟子が性善説を唱えたように人は産まれながらにしてその性が善であると・・・




ならば・・・



「悪」は何時どこからやって来るのでしょうか?



人は弱い側面を持つ生き物です、



それは誰しもが産まれた環境や状況によって人が信じられなくなり、



与えられた環境や社会的条件に疑問を持ちながらもそれ等に身を染めて行き、いつしか自らの良心を信じられなくなって行く・・・



自らの業(ゴウ)や性(サガ)に対する戒めが無くなり、



故に潜在的に自分自身を信じれなくなり、人である事を諦めて行く。



むなしくて、切なくて、寂しいから、辛いから、怖いから、苦しいから、



人は自らの心に怒り、憎しみ、嫉妬などの悪意を芽生えさせ、「悪」と成って行く—



自らの中や外の世界に敵(イイワケ)を見つける事によって更に「悪」を深く潜在させてしまう—



そして、それらが「悪」である理由(イイワケ)を外の世界や他者に貪り探してしまう・・・



「悪」になる可能性は何時でも、誰にでも公平にあります—



これが荀子の唱えた性悪説の所以かと思います。



悪とは自らに対する自己悲哀から生まれてくるものである、



悪とは他者に対する怒りから生まれてくるものであり、



悪とは自らの中で生じた囚われである憎念や怨念から生まれてくるものです—



棄てて行くしかない、



断つ事しかできない、



滅して行くしかない、




私達が他者や自らの中に「悪」を見た時には恐れたり、怒ったり、誤魔化したり、偽ったりするのではなく、格物を通じての真愛と慈悲の心が必要となる—



しかし、これには怒りや憎しみ等の感情的反応に自分を委ねてしまう事の100倍以上の努力と勇気が必要となるでしょう・・・



そのまま私も感情に流され、怒って、憎んで、恨んだ方が楽だと感じてしまうから・・・



自らを偽り、その「悪」から逃げ、「悪」に蓋をして見ないふりをし、自らの中にある「悪」から遠く離れた所の「悪(外界の問題)」を見ることで内在する「悪」と向き合わなくても良く、楽だと思うかも知れない・・・



多くの人は愛や慈悲心を持つことの選択肢は取りたくないし、考え見たくも無いでしょう—



実はこれしか方法がないのに・・・



私達は縁有る人達を助ける事によって自からを助けて行くしかないのです。



それが一歩一歩でも、



どれだけ大変でも、



悲しみを慈しみの心を持って理解し、



「悪」という人間ではなく、



「悪」という行為を見い出し絶てるように、



その人を「悪」にした問題の根元をその人と一緒に見つけて行き、自らの中の「悪」と伴に消滅して行くしかない・・・



そこで我々がしなければならない事は、

まず自分自身を良く理解して行くこと、



頭の中で自分の「善」の理想図(イメージ)を作るのではなく、

感覚を通じて自分の本性を知って行くのこと—



自分も「悪」で在る事を、



だからこそ他者の「悪」が見えることを、



まず自分自身の「悪」を認め、自らがその悪を省み悲しみ慈しむ心で受け入れ、自分の中の「悪」を許して行くしか「悪」の芽を断つことは出来ないから・・・



その芽は自らが見つけ出し芽を摘むしかない・・・



それが「悪」を滅することとなるから—



方法はもう既に皆に伝えられてある・・・



皆が本当に本心から自らを救い、周りの人々を助けたいなら、



利己的な満足感を得る為でなく、



自分が不安や恐怖から逃れる為ではなく、



利害損得の自我を保守する為でもなく、



本心から皆を助けたいなら—



真の勇気を持って、



真の自分を信じれるように、



深く洞察し、深く理解し、深く考え—



浅はかな判断や、



浅はかな結論を出してしまったり、



浅はかにも焦って誤った答えをだしてしまわないよう・・・



あらゆる存在との格物と自からの体認を大切に生きて行くことを心掛けるしかできないのではないだろうか—



「良き人」とは誰か、何かに対しての行いから生じるものでは無く—



己れ自身の経験や体験を通じてできた価値観でさえも結論とせず其処に居る私である—



何かを「感じた」わたしは過去の残骸であり、

何かを「感じつつ」ある私のみが其処に居続けているのかもしれない・・・



自ら自身にとって最も嘘がない世界こそが真愛なる“良き人”がいる場所ではないだろうか・・・



「今」、「ここ」に居る「私」には嘘が入り込む隙間はない—



もしそこに「嘘」が在るとしてもそれは自らが作り出した「嘘」か、

自身が作り出した事でさえも忘れ去り深く眠りに就かせてしまった「嘘」でしかない・・・



原点に於いて「嘘」を作ってしまった時には後が何れほど誠実であろうと一切は「嘘」となる—



それに気付いた時にその嘘を隠し続けることで「良き人」が眠りに就き「悪しき者」となり始める・・・



我々には「良き人」が何かは判らないかもしれないが自らの中の「悪しき者」の悪の芽は自らの手で摘むことができる—



随時わたし達は試されいるのかも知れない・・・



自身が自身に対して誠実であるかどうかを—



一切全ての存在が私に誘いをかけ、常に私達を試しているのではないだろうか・・・



私達の中に「悪の芽」が浮上した時々にその芽を随時摘む事が出来るかどうかを・・・



その濁りきった「悪」を流し清められるかを—



我々の更に深い所に在る良心と謂う名の清き水でその濁った水を洗い流す事が出来るかどうかが試されている—



良心からなる「良き人」とは変化しつつも“今”“ここ”に自ら然り居る私ではないだろうか—







光岡英稔