「自由」
真の自由と何なのだろうか・・・
様々な文化や時代において人が向き合って来たテーマの1つがこの自由と呼ばれるものです—
人間の社会性と人の自由は永遠のテーマなのかも知れない—
我々は自由であると言った錯覚にしばしば陥っているように感じる・・・
何かに属し依存する故の自由か、何かに抵抗する故か、何かに服従する故か・・・
そもそも何かに抵抗する事と、縦横無尽である事の違いを多くは分るのだろうか—
服従する事と仕える事の違いは分かっているのだろうか—
自由と自分勝手の違い—
誰か、何かの助けを借りて自らが自立する事と、
誰か、何かに依存してしまい奴隷と化してしまう事の違い・・・
人は厄介なことに自らの思想の奴隷にもなれてしまう生き物である。
自ら(身体)が自ら(思想)の奴隷と化し、自らが奴隷である事に気付かない故に自由だと思っている我々—
周りから与えられた自由が自由だと勘違いし、外界のから与えられた故に失ってしまうかも知れない不安の裏腹に有る自由・・・
与えられた自由を奪われてしまうかも知れない恐怖に怯え—
故に服従するか、
故に抵抗するか、
分けても別けられないものを分けてしまった故の分離・・・
然れど分かれてしまった事実を持ち合わせている私達
分離は分裂が生じえる可能性を常に潜在させている—
何かが何かに属しつつも離れようとする矛盾と葛藤を造り出してしまう。
抵抗する事にも、服従する事にも自由は存在しない—
自らの由(ごとし)と書いて、「それはそれがそうだからそうである」とただ表している・・・
分かれていながらも各々(おのおの)が自立し、各々が自立しながらも不可分である唯一無二の「いま、ここ、」を共有している—
分裂は何処から始まったのだろう・・・
実体を持つ我々の身体やその源である靈魂(タマシイ)は苦しくても、頭の「安心感」と言う名の「安脳感」の為に我々は自分の肉体をコントロールし自ら(存在)が自ら(思想)の奴隷と化して行く。
または偏った感情的反応が赴くままに身勝手な振るまいを肯定する情念の奴隷になってしまう事もしばしば見受けられる。
奴隷は自らが奴隷であることに何の疑問を持たず、自らが奴隷であることが日常化し、当たり前となって行く・・・
奴隷には自由が許されないのではなく、
そもそも何が自由なのかが判らないだけであり、気付けないだけである—
何かから自由になろうとする者は常に奴隷である—
何かに服従する事で見返りを得て安心(安脳)する者も然り奴隷である事に気付いていない—
自らが何かに服従し、他を自らに服従させようとする者も常に奴隷である事には気付けないであろう・・・
果してどれだけの人が自らが自らの奴隷である事から全てが始まった事に気付けるのだろうか・・・
どれだけの人が自らが奴隷でありながらも身勝手に振る舞える故に自らが自由だと錯覚している事に気付けるのだろうか—
「錯覚されている自由」や与えられた選択肢から恰かも自らが自由に選択したと感じる事が出来る「自由選択の錯覚」を錯覚だと何人が気付けるのだろうか—
自らが自らに課している制限自体が自らに対する可能性をも淘汰してしまっている事に気付けるだろうか・・・
無論そこには他への制限と、他への可能性を淘汰せんとする作用も潜在している。
自らが奴隷と化し、他を奴隷と化せようとする悪病の流行が自らの中から始まる・・・
君自身が感じているコントロールが手放される事への恐怖や不安—
過去と云う名の亡霊が未来と云う名の神を私から遠ざける・・・
自らの体験や経験を絶対視し、その残骸である記憶の断片を自分と呼び、錯覚し・・・
今の感覚がそれ等の体験や経験の記憶と照らし合わせられない故に自らを疑い、
自らに不信を懐き、不安を煽り、不幸が訪れて来る—
自らが不幸である理由は自分以外が原因だと感情的になり、不満を積もらせ—
過去と云う名の亡霊に答えを求め—
記憶の残骸を寄せ集め—
亡霊のみが自分を認めてくれる故に亡霊に躯骼や魂をも委ねてしまう—
記憶の残骸になり、
感情の残骸となり、
肉体の残骸となり、
感覚の残骸となり、
靈魂(タマシイ)の残骸へとなって行く—
亡霊は今やもう死神へと姿を変えて行く・・・
死神を直視すると恐怖と不安が更に沸き上がってくるであろう—
恐ろしく不安ゆえに再びコントロールしたくなるだろう、
記憶をコントロールし—
感情をコントロールし、
肉体をコントロールし、
感覚をコントロールし、
靈魂(たましい)をもコントロールできているのではないかと云う錯覚に陥ってしまう我々—
そのコントロールする私(思想)がコントロールされている私(心身)を引き換えに死神から与えられた安心感・・・
一時だけは死神から保証された安心感・・・
しかし、その一時を過ぎると君に襲い掛かる死神の恐怖—
それは私の中で私の靈魂を蝕んで行く私—
私の中で私の肉体を苦しめようとする私—
自らを苦しめている時は死神の顔を見ずにすみ、亡霊を眺めていられる私—
自らが死神の恐怖から逃れる為に生きながらも屍となり死骸と化してしまった私—
自らが形骸と化し、靈魂(タマシイ)の脱け殻となる選択をした時に—
自分(思い)が自分(靈魂)を分け、
自分(精神)が自分(身体)から離れて行く事が始まった—
精神と身体が分かれてないときは唯一無二の世界が其処に在り—
誰しもに保証がある訳ではないのだが感覚を通じてしか分かり得ない世界が其処に在る—
感覚とは体会を源とする制限無きものである—
我々は愚かにも自らの器の大きさを自らで制限しながらも自らが持っている器以上のことを試みてしまう・・・
我々は自らの程を知らなければならないのでは—
自らの器の大きさを自覚した時には、もう器は其処には無い—
我々は自らの器の大きさを制限したのが自分だと言うことに気付いた時に—
扉は開かれ—
自由への第一歩が自分から始まるであろう—
光岡英稔