2010年1月21日木曜日

「神の擬人化」


「神の擬人化」




古に於いて人は万物に神を見たようだ、

感覚を通じてあらゆる事物を擬人化し人の目から見た神を表そうとした—



無論、人は人の目から観た神しか表す事ができない、しかしそれは神が我々と対等であるなどと言った思い上がりからではなく、純粋に未知たる可能性を我々に呈示してくれる神そのものが未知であると云う自戒の意であったように思われる・・・



しかし、勘違いが各文化で時代々々に起きたことも確かである・・・



言語的表記としての神、



経典と化した神



言葉としての神、



共有された神の偶像、



共有された神の名前、



共有されてしまった神の定義、



大衆を導く為に政治利用をされた神の名、



大衆の中にいる個々の利己的な虚栄心を満足させる為に共有されてしまった神の名、



大衆の中にいる個々の言い訳として使われてしまった神の名、



大衆の中にいる個々の欲望の為に利用されてしまった神の名、



大衆の中に居る一部、もしくは全員によって利用されてしまった神・・・




神を利用することは出来ない—



神を利用しようと足掻く者もいるが、

必ず即座にしっぺ返しをくらうか、

くらった事に気付けぬまま時を過ごし利子が積み重なり何れ大きな代償を払わされる事となるだろう。



神の名を利用することは出来るが、それは果して本当に神なのだろうか・・・



神の名が象徴する「未知なる可能性」を奪おうとする人の擬脳化たる行為、



我々1人々々の中にある自らの可能性を自らが奪い取る「悪の芽」。



自らの可能性を奪った故に魂の無い抜け殻と化した人々、



自らの魂が無い故に周りをも抜け殻にしようとする「悪の芽」の働き・・・



魂の無い抜け殻は淋しく、虚しく、不安で常に満たされてない。



故に他を害する刺激でその虚しや不安さを埋めようとするが何も埋まらない・・・


埋まらないどころか刺激が去って行くと以前に増して虚しさや淋しさや不安が其処にあり、満たされない余りに更なる刺激を求めている私が其処に居る・・・




他を傷つけてでも、


身近な人々を傷つけてでも、


自らを傷つけてでも刺激を追い求めようとしている私が其処に居る—



刺激ある事が生きている事だと錯覚し、更なる刺激が無いと生きている確認がとれない故に不安な私が其処に居る・・・



淋しく、虚しく、不安な私が其処に居る・・・



神や神が与えてくれた霊魂(タマシイ)が私の手によって私から奪われた—



神を文字により擬脳化し、



神を音韻により擬脳化し、



神を定義にて擬脳化し、



神を観念により擬脳化し、



神を置物にて擬脳化し、



神を偶像にて擬脳化し、



神を信念にて擬脳化し、



神を信仰にて擬脳化し、




神を擬脳化した我々が至る所に居る・・・



そして至る所にて神を擬脳化できる機会(チャンス)を伺っている我々が潜んでいる、



神を利用しようとする我々が其処に居る—



神を人知に押し込もうとする理なき行動を取ろうとする私が其処に居る・・・



無理を通そうとする事が愚者の行為であるにも関わらず自らの愚かさを省みず進み続けようとする私達・・・



省みないだけなら未だしも、分かっていながら言い訳を貪り自身と周りを傷つけ、徐々に行き場を失って行く我々が其処に居る・・・



擬脳化した神は可能性なき自己の思い込みや固定観念化された自らの考えでしかなく、

私が自らの欲望を満たす為に作り上げた神でしかない—



古の擬人化たる擬感化された神は未知と既知の狭間に置かれているが、


我々の観念により擬脳化されてしまった神は天から地獄へ堕ち悪となる・・・



地獄とは自らが自らに与えた条件付けにより行き場を失ってしまった場所である—



地獄に堕ちた我々にはもう神の聲は届かないだろう・・・



既知の枠から脱け出せなくなった私が其処に居る、それが更なる悪の基へとなって行く—



我々が神に姿形を与えさせてもらう中で僅かでもその存在に携わらせてもらえる故の擬人化であるなら神は私を諭してくれるであろう—



傲慢にも神々を作り上げようと錯覚する私達には目を覚ます為の機会が災難として与えられるのではないだろうか—



神の存在を名ずけながらも、それは常に未知の存在でしかないと自らを戒められるなら神は私に機会をくれるであろう、



神は万物に宿り、万物の一部である私にも宿っているから—



神と出逢う機会は万物万人に公平に与えられている—



自らの可能性を閉ざしているもののみが、その機会(チャンス)を逃してしまうであろう—



我々の内面にも潜む神々から与えられた姿形でのみ出逢えるその神々とは—



神々は至る処に存在し随時私達に語りかけてくれているが聞く耳を持たなくなった我々にはその声が雑音か無声にしか聴こえないであろう・・・



我々は自らが擬脳化した音声(オト)しか聴こえなくなってしまったのかも知れない—



擬脳化した音声しか聴こえず、



擬脳化した事物しか見えず、



擬脳化された場所にしか住めず、



擬脳化した交流しか互いにできず、



擬脳化した自分しかそこにはもう存在しない—



神はもう其処には居ず、その聲も我々の耳には届かなくなってしまったのかも知れない・・・



虚しくも我々を通り過ぎて行く神の聲がいま一度聞こえるようになるには私達自身が変わるしかない—



外界を見る目を閉じ、心の眼を静かに見開いた時に初めて神が私に何を、何時、何処でどうすべきかを諭してくれるだろう—



そして、その時は既に為すべき事を為すべき処で為している私が其処に居るであろう—



そこは自らの選択と運命に狭間を感じていない私が居る処でもある・・・



それは身近な事実を受け止め、受け入れている私が其処に居る事でもあり、



現実を見据え自らを変えて行こうと心に決めた私でもある・・・



“私の思い通り”足る擬脳化された神への傲慢で自分勝手な期待を捨て去った時、神は私に語りかけてくれるであろう—



万物や周囲の人々を通じて神は常に私達に語りかけている、



万物や周囲から諭され感覚を通じて自らを省みている私が其処にいる時には擬脳化は擬感化となり、神から与えられた万物と自ら双方を阻害する事なく擬人化が出来るのではないだろうか—




その時に初めて人は自他を傷つけること無く、神が呈示してくれている事柄から学び諭してもらい、万物に対する感謝の意から擬人化を行えるのかも知れない・・・







光岡英稔