2010年1月21日木曜日

「実践とは・・・」

「実践とは・・・」




拳や武を志す者としては常に心に留めておいて然るべきテーマであろう・・・



しかし、多くの人々は限定された“枠の中での実践”を実践だと勘違されているのではないだろうか—



ある競技、大会、各道場内や稽古場でのお約束、

大なり小なりあるルールを共有し、その枠の中での共有されたルールを基に“限定された実践”が生じる。



これらが“断片的な事実”であることは確かだが・・・



“断片的な事実”を安易にも実践と呼んで良いものかどうかを私は問う—


断片的である以上は“枠”が存在し、


“枠”が存在する以上は必ずルールがそこに在り、

ルールあるものを安易にも実践と呼び、

その“枠”を拳や武としてしまってよいものだろうか・・・



ルールが存在する以上はそれ等は人工的、人為的に作られたゲームでしかない。



私はゲーム自体を否定するつもりは全くない、


それどころか我々が枠の中で失敗を悔やんだり、成功を喜んだり、あ〜だ・こ〜だと不平不満を言わせてもらいながらも平和な日々を送らせてもらえる理由が社会と言う名のゲームとルールがあるからだと私は理解している。



しかし、何時しか錯覚が起こったようだ—


安全が確証されている枠の中での御約束を何時しか実践と勘違いしはじめた我々が其処に居る—



一対一のお約束から集団のお約束まで、

道場の中から大会や巨大組織まで、

どれ程お約束の幅が広がれどお約束でしかない事を—



僅な状況設定でもそれを持ち込んでしまうと人工的なルールが其処に生じ、実践から離れてしまう事を—



私達はこれ等がリアルに出来た錯覚でしかないことに気付けるのだろうか・・・



勝ちを欲し、負けを恐れる故に自らの設定したルールに相手を引き込み不安を克服しようとする—



その枠の外の価値観を否定するか、

自らが作り上げたルールや自らが受け入れ共有している価値観からなるルールに他者を引き込む事でしか不安は無くならない—



それか自身のみの価値観にしか目を向けず他者の価値観から自らを住み分ける事で自らの価値観を守り、

常に自らの枠の中で作った安全と安心感に身を置く選択もとれる・・・



その場所は「私の価値観」と言う名の壁で守られた枠の中だから安心できる・・・


しかし、本当に殻に隠っているだけで安心があるのだろうか・・・


自らの決めつけからか、ある一定の集団によって出来上がった価値観からなるその場しのぎの安心感が得られる事も確かである・・・



しかし、私達は自分自身にだけはウソを貫き通せないようになっている・・・



“私の決めつけ”“共有された条件付け”や“その場しのぎ”は良くできた嘘でしかない—



実践とは“その場しのぎ”や“条件付けられたセオリー”でないことは確かだと思う。



多くの方々は自らが作った条件によってできた価値観が実践だと勘違いされているようだ・・・



この条件だったら—


このルールだったら—


このゲームだったら—


この価値観の中だったら—


この枠の中だったら—


シミュレーション通り行けば—


自分の思い通りだったら—



等々と・・・




ならば他の価値観や他の枠付けや条件、自分の想定外にあるゲームやルールを持ち込まれた時は自身の実践は崩壊してしまうであろう—



自らのセオリーやシミュレーションに無いものが社会や自然の中には充満している—



ならば実践とはそれらの様々な価値観や状況に対応できるよう準備しておく事だろうか・・・



そんな事が君にできるだろうか、


全ての起こり得る状況に対してセオリーやシミュレーションを立てて置くことなどできるだろうか?



今でさえも全てが刻々と代わり行く中で周りがどう変化するか分かり得るものなのだろうか・・・



実践とは相手の出方を伺うことなく自らを表現することである—



自らの持つ価値観が変わり、他者の価値観を何時でも何処でも受け入れられるかが問われている、



自らに提示されてくるどの様な状況にでも応じ対する事ができるだろうか・・・



拳学において実践が「できる」「できない」はその都度決まる事かと思われる—



しかし、「できる」「できなければ」の前に「何が?」「何を?」と「どう?」「どの様に?」から「何故?」「どうして?」が問われる必要はないだろうか・・・



無論危機が目の前に迫って“そうなっている”状況の時にまで考えろとは言わないが、いま御自身が危機的状況でないかぎりは考えてみても良いかとは思われる・・・



実践と何ぞやと・・・



もしくは“実践”でないものとは何かを・・・




拳学に於ての実践とは、行住坐臥を通じて自らを省みて行くことであり一時々々を生きて行く事なのかも知れない—



私にもハッキリとした答えが有るわけではないのだが・・・



もし、あえて実践を語るならば—



一時も留まることのない行住坐臥である流れの中にて“今”“此処”で必要とされている事を熟せるかどうかのみが私にとっての「実践」である—




「実践」とは—


一切の条件(ルール)や枠付けが取り外された時のみに生じる事象である—



「実践」とは—


大なり小なり限られた条件(ルール)の中で競われたり予習されるものではない—



「実践」とは—


常に思い込みでしかない“お約束”が覆されて行く世界である—



「実践」とは—


自らの自己顕示欲を満たす為に限られた枠の中で弱者を作り、条件付けられた武力や権力にひれ伏する弱者のみを周りに置いておく事ではない—



「実践」とは—


同種同士の一対一の争いから、全ての国家権力、戦争兵器、政治力や生存競争の条件をも争う為の条件として見れた時に初めて語られるべき言葉である—



「実践」とは—


どの様な状況に於いても応じ、“もし”“もしも”“だったら”“であれば”“でなければ”等々が許されない現実のみが存在する世界である—



「実践」とは—


思惟された生と死の想定に置ける生死の仮想(シミュレーション)を行うことではなく、刻々と過ぎて行く今現在に置いて一度しかない“生”と“死”に一刻々々どう私が向き合って行くかが問われる世界である—



「実践」とは—


自ら慣れ親しんだ状況が一変した時に、想定外の出来事が目の前に提示された時に、自らがどの様な選択をするかが問われる世界である—



「実践」とは—


どの様な武力や権力にも屈せず、挑まず、依存せず、どの様な圧力に対してでも逃げる事もなく、攻める事もなく、固着する事もない私が其処に居る時に為されている事なのかも知れない・・・




実践とは—




しかし、これ等の考えは所詮わたしと言う“個”のみに属す価値観でしかない故に、他者がこの価値観を共有するとは限らないであろう。



よって我々は共に問い続けなければならいであろう・・・



拳や武を学んで行く上での「実践」とは如何なるものかを—






光岡英稔