「変化への感情的否定」
社会の中で宗教、武術や科学等のあらゆるジャンルに於いて、人はなぜ同じでない事や変化が有ることを拒むのだろうか・・・
ある考え方や教えに対する固定観念、
教典、教学そのものに自らのアイデンティティーを依存させてしまい絶対性をその教えに持たせてしまうこと、
様々な社会的地位に対す利己的な依存性からなのか、
感情的満足が与えたえてくれる地位が獲られるからか、
経済的満足感を与えてくれる地位が獲られるからか、
またはその双方か・・・
何故、既知を持ってして新たに生じている“未だ嘗て無い”未知が見せてくれようとしている現象に対し、
いとも簡単にその答を結論付けてしまえるのか本当に不思議である・・・
一切すべてが常に留まること無く変化しているのに・・・
我々が知る限り一度足りとも止まった事がないのに・・・
我々による同じ現象だと言う思い込みや錯覚はあっても—
我々浅はかな人間の目には同じ様にしか映らなくても—
君が、常に変化が有る事に対し不安を感じずには居られなくても・・・
君がどれだけそうで無いと思い込んでも、
こうであるべきだと決めつけても、
どれだけ見えてなくても・・・、
一切すべては常に秩序在る変化を続けている—
仮にそれが人間に取って無秩序と感じられる変化であっても。
それは常に秩序ある変化である・・・
“一切すべて”に取っては—
宇宙、太陽、地球、天の運気や季節、日々の風景など・・・
君の体内、心臓、血流、呼吸器、消化器、細胞の死滅と再生、等々・・・
我々が死を迎えた後に全てが天地に戻って行くこと、
「動」から「静なる動」へと腐敗し、分解し、分離し、全体の変化へと融合して行くことも然り・・・
感覚、感情、精神の変動、心の変化は何処まで続くのだろうか—
周りの変化は常のことで、君の変化も常のこと・・・
常で無きこと、それは今ある此処が常に滅する事なり、それ常の事なるや・・・
でも冷静に考えてみると、これ等の変化の内どれかが一つでも止まってしまったら私達人間にとって本当に致命的な事となってしまう、
たしかに安定した変化が欲しいのは生き物の性(サガ)かと思われる。
その衝動自体は自然な事であろう・・・
しかし何故か人間だけが情念からくる欲望や欲求によって常に止まる事の無い自然を固定化し、既知と云う名の箱に入れて所有しようとしてしまう・・・
そして所有し箱に詰められた自然を次はコントロールし、操作できる事に我々の情念から来る欲望が満たされて行く・・・
また、それはコントロール、操作される場合でも同じく“人知の欲望”は自らの身体をコントロールできる優越感を感じつつ、情念はコントロールされている劣等感を持ち合わせて行く—
他者の価値観と自分の価値観からなる人知が自からの存在をコントロールしていると錯覚し、優越感に浸れる、
劣等感も自身が他の価値観を自らの存在よりも優先する故に有る感情でしかない。
他者の価値観を主とした君(感情)を造り出している君(思惟)が、“私の思い通りになる世界”を現実だと錯覚し、他力本願でしかない安心感を得ようとしてしまう—
他の価値観に依存し、頼りきり、全てを委ねてしまいたい君(思惟)・・・
自ら(思惟)が自ら(存在)を知らないと云う無力感から他の価値観に自身を染めてしまい、全てを委ねてしまいたい君から生じる劣等感—
君自身が自らを知れない理由は君自身がその変化そのものであり—
君の感情自体も変化の一部であるから—
捉えきれないその変化である君よりも、より鮮明でリアルに感じられる停止したアイデンティティーと言う名の君・・・
しかし、それは錯覚ゆえに不安の裏腹になっている劣等感や優越感でしかなく、
本当は全てが変わりつつ在ることを君(存在)の本心は知っている—
同じで有り続けるモノなど存在しない事を本当は知っているから・・・
その優越感の元が思い込みでもいいから、
錯覚でもいいから、
ウソでもいいから、
ただの自己満足でもいいから、
「物事は変わらず決まっていて固定化され、物事の関係性も固定されていて、いつでも私の思い通りに操作しコントロールできるんだ!」
と願っているから・・・
私知の欲望や欲求が満たされた結果、それが優越感や劣等感として表れる—
そして更にその優越感や劣等感とその基になっている対象やそれらとの関係性を固定化しようとする—
確かに其処には一時の安心感が感じられるが・・・
それは人が既知の中にある断片的事実が繰り返されているかのような錯覚を起こす事であり、
「外的に存在する事象を思うがままにできたのでは!?」と勘違いし、
自然事物を我々人間が「コントロールできるのでは!?」と更に深い錯覚に陥り、人知が快感と一時の至福を得てしまえる事でもある・・・
愚かにも我々の思惟が、自らが造り出した錯覚に対し優越感や劣等感を感じ歓喜する事を覚えてしまうのではないだろうか—
そして更にそれ等を止めて置きたいと言う願望や欲望が何処からと無くやって来て、
一見我々の意志とは関係なく、コントロールしたい欲求が自分の中から湧いて出てくる、
君にはそのつもりが無くても・・・
そして、言い訳の様に“私は自然にそうなり、自然にそう感じているんだから”と言いたくなるだろう—
“そう感じている事や欲望が生じる事は、自然にそう為ったのだから私の責任じゃあない”と言いたくなるだろう・・・
“そう感じる事は自然だから私の責任じゃあない!
そう云う事が起こるのは外の世界や他人のせいだから私とは関係ないし、私に責任はない!”
—と主張したくなるだろう・・・
自分の立場が揺らいでしまうから、
自分の権威が揺らいでしまうから、
自分のアイデンティティーが揺らいでしまうから、
気付かない内に守っていた自我があるから、
必死に権威を守らなければ自分が消えてしまう感じがするから、
誰も私の声を聞いてくれないから、自らを主張しなければならない!
自らの主義を他に訴え掛けないといけない!
自らの意見を肯定しなければならない—
そうしなければ自分が消えてしまう様に感じられるから・・・
私自身が私の存在を確認することができないから、
自らの中で自身の存在意義への迷いが生じるから、
そこに居る私は私を理解できない私だから・・・
その私を許せない私を其処に造り出してしまう—
私が不安だから、
私が恐いから、
私が信じられないから、
私が許せないから・・・
自己を外の世界へ顕示する事を欲し—
外の世界に目を向け言い訳を造ろうとする—
外の世界に目を向けておけば自分を見なくて済むから、
私自身の内側を見詰めるのが恐いから、
答え無き自分が怖いから・・・
私はそう感じてしまう・・・
不安を感じ、
恐怖を感じ、
不信を感じ、
怒りを感じ、
不満を感じ、
自らが不幸であると感じてしまう—
そう感じてしまう・・・
私達の想念と情念が入り乱り、君を更にそれ等の感情へと導いて行く—
其処での誘惑は外の世界へ答えを求めてしまうこと・・・
外の世界へ刺激を求め、
他の価値観に染まり、
外の世界へ言い訳を求め—
そこに答えは無いことくらいは分かっているのに・・・
全ては君自身を見せてくれる鏡として存在しているだけなのに—
鏡が曇っている訳ではなく、
鏡を見ようとしている自身の目が曇っていただけであり—
鏡から自分の目を反らしているだけなのに—
私の見たいものが見たい様に見えない故に鏡を直視する勇気がないだけなのに—
外の世界を言い訳にしてしまう君が其処に居る—
外の世界に自分の責任を委ねてしまいたい君が其処に居る—
外の世界に自らの選択に対する責任を委ねようとする君が其処に居る—
外の世界に選択肢を提示されようとも、その選択は私がしなければならない—
君の行為にて、君の手足にて、君の存在にて、君が選択をしてきた事実から逃れられる事はなく、
これからも選択して行くであろう事には言い訳はきかない・・・
君が行ってきた事や、選んできた事は君の責任ではないと語る事は出来ても通用はしない・・・
自分が自身に対して嘘をつき、騙し、偽る事だけはできないから—
自らに対する誤魔化しと逃避だけはできないから—
ただし、他者の価値観に身を染める事で、自らが選択した事への責任を逃れる為に言い訳を準備している私は居るかも知れない—
言い訳を気付かない内に造り出している私は居るかも知れない—
気付かない内に偽りの自分を造り出しているかも知れない・・・
それ等の問題を炙り出す方法は只1つしかない—
縁起によって生じる出会いや事象を通じて、それ等を格物とし自らを省みて行く事でしか問題は解決されないであろう・・・
それは君が縁有って遭遇してきた全ての出来事が自分に何かを諭してくれようとしているが、
自我の働きである君の思い通りに“したい”“ならない”と言う我が儘な不満が邪魔をした時には周りが諭してくれている現実は見えも聞こえもしないであろう—
自らが過去遭遇してきた、いま遭遇している、これから遭遇するであろう全ての問題は自分自身が導き出した問題であり、故に自分以外には解決できない問題である—
私が出会う全ての問題も縁から生じた“もし”“たら”“れば”が通じない真実の世界であり、
その出会いに対する抵抗や逃避は只々虚しい夢物語にしかならないであろう—
自分にしか解決できない問題から逃げたり、抵抗する事は天命に背くことに等しい・・・
天に背いた時にしっぺ返しが来るのは当然かとも思われる—
天に準ずる事とは—
人事を尽くして天命を待つことでもあり—
変化を認め過去に囚われる事なく前進し、
目の前の現実と向き合い、
他を咎めず自らを戒め、
自らの手足を持って新たな未知へ挑戦する事であり、
周り全てに自らを諭してもらい改められる事でもある・・・
体認しかり—
格物しかり—
得悟しかり—
縁起しかり—
天聲しかり—
全ては自らを省みる為に生じてくれている事象である・・・
しかし、省みれるかどうかは私達の選択にかかっている—
全ての事象に偏見を持たず感じつつあれるかかは私の選択にかかっている—
そう、君が君の問題への答えを見い出せるか、君が君をより深く知り得るかは全て君の選択にかかっている—
何時までも、何処までも・・・
光岡英稔